アキヒロ号のブログ
akihiro-go blog
本の紹介

八佾第三(6)

季氏(きし)泰山(たいざん)に旅(りょ)す。子(し)、冉有(ぜんゆう)に謂(い)つて曰(い)はく、「女(なんぢ)(すく)ふ能(あた)はざるか。」対(こた)へて曰はく、「能(あた)はず。」子曰はく、「嗚呼(ああ)、曾(すなは)ち泰山は林放(りんぽう)に如(し)かずと謂(おも)へるか。」

(訳)諸侯は領地内の山川(さんせん)を祭ることになっているが、魯(ろ)の大夫(たいふ)の季氏(きし)は諸侯でもないのに魯の国内にある泰山(たいざん)の祭をしようとした。孔子が弟子の冉有(ぜんゆう)に向って「おまえは主人の季氏が僭上(せんじょう)の罪に陥(おちい)るのを救うことは出来ないか」というと、冉有は「主人の季氏は泰山を祭って幸福を求めようと思いこんでいますから、私が諌(いさ)めたくらいでは思いとどまりません。それゆえ私には季氏が僭上の罪に陥るのを救うことはできません」と対(こた)えた。孔子はこれを聞いて歎(たん)じて曰(い)うには「ああ、それならば泰山の神は林放(りんぽう)にも及ばないものだと思っているのであろうか。林放は人であるのに、なお文(かざり)の過ぎるのは礼に外(はず)れていることを知っている。泰山は神であるから、どうして礼に外れた祭をうけることがあろう。」

著者の解説では、孔子が季子(きし)の僭越(せんえつ)を歎(たん)じて、これを救おうとする意をのべたものである、と書かれていました。

冉有(ぜんゆう)は孔門十哲の一人で、行政手腕に優れた人と言われる人です。林放(りんぽう)も孔子の弟子で、ここでは林放でも礼儀作法を知っているのにと例に出されています。僭上(せんじょう)とは僭越(せんえつ)の意味で「自分の身分・地位を越えて、出過ぎた事をすること」で、歎(たん)じるとは「なげき、いきどおること」です。礼儀や作法が大切であると学びました。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

論語新釈 (講談社学術文庫) [ 宇野 哲人 ]
価格:2,233円(税込、送料無料) (2025/4/6時点)