顔淵(がんえん)喟然(きぜん)として歎(たん)じて曰(い)はく、之(これ)を仰(あふ)げば弥(いよいよ)高(たか)く、之(これ)を鑽(き)れば弥(いよいよ)堅(かた)し。之(これ)を瞻(み)るに前(まへ)に在(あ)り、忽焉(こつえん)として後(しりへ)に在(あ)り。夫子(ふうし)循循然(じゅんじゅんぜん)として善(よ)く人(ひと)を誘(みちび)く。我(われ)を博(ひろ)むるに文(ぶん)を以(もっ)てし、我(われ)を約(やく)するに礼(れい)を以(もっ)てす。罷(や)めんと欲(ほっ)して能(あた)はず。既(すで)に吾(わ)が才(さい)を竭(つ)くす。立(た)つ所(ところ)ありて卓爾(たくじ)たるが如(ごと)し。之(これ)に従(したが)はんと欲(ほっ)すと雖(いへど)も、由(よし)なきのみ。
(訳)顔淵(がんえん)が孔子の道を学んで既に悟(さと)る所があったので、歎息(たんそく)して曰(い)うには、「初め私は先生の道を学んでこれを悟(さと)り得(え)ようとしたが、先生の道はこれを仰(あお)ぎ望(のぞ)んで上(のぼ)って行けば、行くに従(したが)ってますます高くなって、上(のぼ)りつくことができない。これに鑽(き)り入(い)ろうとすれば、鑽(き)るに従ってますます堅(かた)くなって、鑽(き)り入(い)ることができない。瞻(み)ると、道が己(おのれ)の前に在(あ)るようだから勇猛心(ゆうもうしん)を起して進んで行くと、たちまち己の後ろに在(あ)るという有様(ありさま)で、道の本体(ほんたい)を見定めることができなかったのである。しかるに、幸いにも、先生は順序(じゅんじょ)次第(しだい)を立てて善(よ)く人を教え導きなされた。まず文(ぶん)をもって私の心を博(ひろ)めて古今(ここん)の事理(じり)に広く通じるようにし、ついで礼をもって私を約して一挙(きょ)一動(どう)中正(ちゅうせい)の道に従うようにしてくださった。これによって、私はこの文をもって博(ひろ)め礼をもって約(やく)する修行(しゅぎょう)を深く喜んで、罷(や)めようとしても罷めることができず、私の才力(さいりょく)の限りを尽くした。その結果、以前いよいよ高くいよいよ堅(かた)く前に在(あ)るかと思えば後ろに在ってしかと見定められなかったところのものが、今では私が前に高く立っているように思われる。力を竭(つ)くしてそこまで行こうとするけれども、力が足(た)りないで如何(いかん)ともしようがないのである。」
著者の解説では、この章は顔淵(がんえん)が自ら己(おのれ)の学問修行(がくもんしゅぎょう)の経過(けいか)を述(の)べたのである。と書かれていました。
優れた師や理想の前に自分を知り、謙虚に学び続けることが大切だと分かりました。


