宰予(さいよ)昼(ひる)寝(い)ぬ。子曰はく、「朽木(きゅうぼく)は雕(あ)る可(べ)からず。糞土(ふんど)の牆(しょう)は朽(お)すべからず。予(よ)に於(お)いてか何(なん)ぞ誅(せ)めん。」子曰はく、「始(はじ)め吾(われ)、人(ひと)に於(お)けるや、其(そ)の言(げん)を聴(き)いて其(そ)の行(おこな)ひを信(しん)ぜり。今(いま)吾(われ)、人(ひと)に於(お)けるや、其(そ)の言(げん)を聴(き)いて其(そ)の行(おこな)ひを観(み)る。予(よ)に於(お)いてか是(これ)を改(あらた)む。」
(訳)宰予(さいよ)がある日昼寝をした。学に志す者は寸陰(すんいん)を惜(おし)んで勉強するべきである。しかるに昼寝(ひるね)をするとはこの上もない怠惰者(なまけもの)である。孔子がこれを責めて曰(い)われるには、「木の堅(かた)いのには雕刻(ちょうこく)することができるけれども、朽(く)ちた木には雕刻はできぬ。牆(かさ)の固(かた)いのには塗って飾ることができるけれども路上の乾(かわ)いて湿気のない土で築いた牆(かさ)は下地(したじ)がぼろぼろしていて塗って飾ることができない。宰予(さいよ)は怠惰者(なまけもの)で、教えを施(ほどこ)す素地(そち)がなく、朽(く)ちた木や路傍(ろぼう)の乾いて湿気のない土で築いた牆(かさ)と同様なものであるから、いかに宰予を責めても道に進ませることはできないから、わしは宰予に対してこれを責めはしない。わしはむかしは人に対して、その言う所を聴くとその行う所もその通りだと信じて疑わなかったものだが、今から後は、わしは人に対して、その言う所を聴いても、直(ただ)ちにその行う所もその通りだと信じないで、必ずその行う所を観(み)てからこれを信ずることにする。宰予で失敗したから、人に対する態度を改めるのである。」
著者の解説では、この章は孔子が門人の怠惰(たいだ)を戒(いまし)めて、その自ら改めんことを欲したのである。と書かれていました。
牆(かさ)とは、塀や壁のことです。宰予(さいよ)は孔子の門人の中で言語に巧みな著名人であったのだそうです。言葉に惑わされず、言葉を注意深く聞いてさらに行動を観察することで、人を正しく理解したいと思いました。


