アキヒロ号のブログ
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本の紹介

里仁第四(6)

子曰はく、我(われ)は未(いま)だ仁(じん)を好(この)む者(もの)不仁(ふじん)を悪(にく)む者(もの)を見(み)ず。仁(じん)を好(この)む者(もの)は以(もっ)て之(これ)に尚(くは)ふるなし。不仁(ふじん)を悪(にく)む者(もの)は其(そ)の仁(じん)を為(な)すや、不仁(ふじん)なる者(もの)をして其(そ)の身(み)に加(くは)はらしめず。能(よ)く一日(いちにち)(そ)の力(ちから)を仁(じん)に用(もち)ふるあらんか、我(われ)は未(いま)だ力(ちから)の足(た)らざる者(もの)を見(み)ず。蓋(けだ)し之(これ)(あ)らん。我(われ)は未(いま)だ之(これ)を見(み)ざるなり。

(訳)わしはまだ仁を好む者と不仁(ふじん)を悪(にく)む者とを見たことがない。仁を好む者は真に仁の好むべきことを知っているから、天下に仁に勝(まさ)るものはないと思う。不仁を悪む者は、真に不仁の悪むべきことを知っているから、その人が仁をする時には、必ず不仁の事を絶(た)ち去(さ)って、少しもその身に及ぶことのないようにする。この二つは徳の成った人のすることであるから、見難(みがた)いのである。しかし、もし一旦(いったん)心を奮(ふる)い起して力を仁に用いる者があるならば、わしはまだ力の足りない者の有るのを見たことがない。仁を行うのは己の心一つにあることで他人の力を借りるのではなく、仁を欲する心がすなわち仁であって、己の情意の作用はこれに導かれるものである。故に仁を能(よ)くすることは困難だけれども、仁に至ることも容易である。あるいは力の足りない者があるかも知れぬが、私はまだ見たことはない。

著者の解説では、この章には三度「まだ見ない」と言っているが、初めは徳の成った人をまだ見ないことを言い、次には力を仁に用いる人をまだ見ないことを言い、末には力を用いて力の足りない人をまだ見ないことを言っている。みな学者が自ら警(いまし)めて力を仁に用いることを望んだのである。と書かれていました。

「おもいやり」や「いつくしみ」以上にひとに必要なものはないと分かりましたので、一日でも「おもいやり」や「いつくしみ」を持ってみようと思いました。

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