子(し)、魯(ろ)の大師(たいし)に楽(がく)を語(つ)げて曰(い)はく、「楽(がく)は其(そ)れ知(し)るべし。始(はじ)めて作(な)すに翕如(きゅうじょ)たり。之(これ)を従(はな)つて純如(じゅんじょ)たり。皦如(きょうじょ)たり。繹如(えきじょ)たり。以(もっ)て成(な)る。」
(訳)孔子が魯(ろ)の楽官(がっかん)の長に音楽のことを告げて曰(い)うには「先王(せんのう)の制作した音楽の声音(せいおん)や節奏(せっそう)は知ることのできないものではない。音楽の演奏される初めには音律が具備している。しばらくして各楽器が思うままの音(おん)を出すようになると、清濁(せいだく)高下(こうげ)がよく調和する。各種の楽器の音(おん)が混乱しないで明白(めいはく)である。各種の音声が相(あい)連続して絶えない。このようにして一箇の音楽が出来上がるのである。
著者の解説では、これは孔子が衛(えい)から魯(ろ)へ帰って楽を正そうと思ったので大師(たいし)の摯(し)という者に告げたのだという説がある。と書かれていました。
翕如(きゅうじょ)とは、音律の備わること。純如(じゅんじょ)とは、音の調和すること。皦如(きょうじょ)とは、明らかなこと。繹如(えきじょ)とは、相続いて絶えないことです。音楽を学んで人間性を完成させる、と考えていた孔子の考えが表れていると思いました。