或人(あるひと)禘(てい)の説(せつ)を問(と)ふ。子曰はく、「知(し)らず、其(そ)の説(せつ)を知(し)る者(もの)の天下(てんか)に於(お)けるや、其(そ)れ諸(これ)を斯(ここ)に示(み)るが如(ごと)きか」と。其(そ)の掌(たなごころ)を指(ゆび)さす。
(訳)ある人が禘(てい)の祭の意味を問うた。禘の祭は先王(せんのう)が己(おのれ)の身の根本に遡(さかのぼ)って恩を報じ、遠い遠い昔を思い慕(した)う心を表すのであるから、仁孝誠敬(じんこうせいけい)の至れる者でなければ、その深意を知ることは出来ないし、また魯(ろ)が天子でもないのに禘の祭をするのは礼に外(はず)れていることをあらわさなければならないから、孔子はこれを説明することを避けて「わしは知らぬ。もし禘の祭の意味を知ってる人があって天下に臨(のぞ)むならば、ここに視(み)るように容易に天下を治めることができる。」と曰(い)って、自分の掌(たなごころ)を指(ゆび)さして見せた。
著者の解説では、孔子は禘(てい)の祭の意味を知らないのではないけれども、一方には己(おのれ)の国の悪い事を言うのを避け、一方には話しても分からない人に話すことを辞して、「知らぬ」といったので、「知らぬ」の一語はこの章のうちで重い意味をもっているのである。と書かれていました。
仁孝誠敬(じんこうせいけい)とは、儒教で人が常に守るべきとされる五つの道徳、孝(親を敬い、大切にすること)、悌(兄弟や親戚を大切にすること)、義(正義を守り、誠実であること)、礼(儀礼を重んじること)、知(知識を学び、理解すること)を表す言葉です。掌(たなごころ)を指(ゆび)さすとは、物事が明白で疑問の余地がないことです。差し支えのある話をする時は、相手や場所を選んで言う必要があるのだと学びました。