王孫賈(おうそんか)問(と)うて曰(い)はく、「其(そ)の奥(おう)に媚(こ)びんよりは寧(むし)ろ竈(そう)に媚(こ)びよ」とは、何(なん)の謂(いひ)ぞや。子曰はく、「然(しか)らず、罪(つみ)を天(てん)に獲(え)ば祷(いの)る所(ところ)なきなり。」
(訳)王孫賈(おうそんか)が問うて曰うには「諺(ことわざ)に『奥(おう)に親しみ順(したが)うより竈(そう)に親しみ順うほうがよい』と申しますが、これはいかなる意味でございましょう。」奥(おう)は常に尊い位(くらい)にあるけれども祭の主ではなく、竈(そう)は卑(いや)しいけれども夏の祭の主となるから、奥を君に喩(たと)え竈(そう)を己(おのれ)に喩えて、君に従うよりは己に附(つ)くほうが好(よ)いということを諷(ふう)したのである。孔子はこれに対(こた)えていわれるには、「奥(おう)に親しみ順(したが)うのも、竈(そう)に親しみ順うのも、どちらも道理に外(はず)れております。この世に天ほど尊い者はありません。天は正しい道理を主とするものであります。人がもし正しい道理に違ったことをして天から罪を受けるならば、いかに祷(いの)ってもその罪を免(まぬか)れることはできません。奥や竈などは恃(たの)むには足らぬものですから、親しみ順う必要はありません。」
著者の解説では、北宋の学者「射良佐(しゃりょうさ)」の言葉を借りて、「聖人の言葉は少しも圭角(けいかく)がなく、謙遜(けんそん)で人に迫るようなところがない。王孫賈(おうそんか)がこの言葉の意味を知るならば、その非を悔(く)い改める利益があるし、もし知らなくても、孔子自身禍(わざわ)いを受けるようなことはない。」と書かれていました。
さらに解説では、王孫賈は衛(えい)の国の大夫(たいふ)で権勢ある人である。当時孔子が衛にいたから、孔子が衛に仕(つか)える心があると思って、諺(ことわざ)を引いて君に媚(こ)びるより権臣(けんしん)に媚びるほうが有効(ゆうこう)であることを諷(ふう)したのである。と書かれていました。
圭角(けいかく)とは「言語、行動が角だって、円満でない」こと。謙遜(けんそん)とは「控え目なつつましい態度でふるまう」こと。道理に外れるようなことをすれば神に祈っても無駄で、天に背くような行為は祈ったところで許されないということが分かりました。