子曰はく、吾(われ)回(かい)と言(い)ふこと終日(しゅうじつ)。違(たが)はざること愚(ぐ)の如(ごと)し。退(しりぞ)いて其(そ)の私(わたくし)を省(かへり)みれば、亦(また)以(もっ)て発(はっ)するに足(た)れり。回(かい)や愚(ぐ)ならず。
(訳)わしは回(かい)と朝から晩まで学問上の話をするけれども、わしの言うことと意見の相違があって反問するということもなく、まるで何もわからない愚人(ぐじん)であるかのようである。回がわしの前を退(しりぞ)いた後、わしは回の私的生活を観察すると、彼もまたわしの話した道理を一々差(たが)うことなく行為の上に発することができるのである。回は愚人ではない。
著者の解説では、孔子が顔淵(がんえん)を称(ほ)めたのである。と書かれていました。
回(かい)とは、孔子の弟子のうち最も優れていた人だったそうで、顔淵(がんえん)または顔回(がんかい)とも言われている人です。孔子の存命中に三十二歳の若さで亡くなってしまった人で、名誉栄達を求めず、ひたすら孔子の教えを理解し実践することを求めた人だったそうです。