「唐棣(とうてい)の華(はな)、偏(へん)として其(そ)れ反(はん)せり。豈(あに)爾(なんぢ)を思(おも)わざらんや。室(しつ)是(こ)れ遠(とほ)ければなり。」子曰はく、「未(いま)だ之(これ)を思(おも)わざるなり。夫(そ)れ何(なん)の遠(とお)きことか之(こ)れあらん。」
(訳)「唐棣(とうてい)の花は無情なものであるけれども、ひらひらと動いてるところを見ると、情があるようである。まして我は有情(ゆうじょう)の人であるから、どうして爾(なんじ)を思い慕わないことがあろうか。ただ居(お)る所の室が遠くに隔(へだた)ってるから、思うけれども相見(あいみ)ることができないのである。」と古詩(こし)にあるが、孔子がこれを評して曰(い)われるには、この詩の作者は思うけれども遠いといってるが、わしに曰(い)わせれば、彼は未(いま)だ思わないのである。もし切(せつ)に思うならば何で遠いことがあろうか。人が道を思うのもこれと同様で、思えば得られるが、思わなければ得られないで、遠くに在(あ)る者のように見えるのである。
著者の解説では、この章は古詩(こし)を評して人が思うことを廃(はい)するのを恐(おそ)れる意(こころ)を述(の)べたのである。と書かれていました。
心が届かない距離を言い訳にしないようにしようと思いました。


