子曰はく、憤(ふん)せずんば啓(けい)せず。悱(ひ)せずんば発(はつ)せず。一隅(いちぐう)を挙(あ)ぐるに、三隅(さんぐう)を以(もっ)て反(はん)せずんば、則(すなは)ち復(ふたた)びせず。
(訳)人が教えるには、教えを受ける人に教えを受けるだけの素地(そじ)が出来たのを見て、教えを施(ほどこ)すべきものである。もしある事を研究して、これを知ろうと求めてもまだよく知ることができないで煩悶(はんもん)してるのを見なければ、その意を開いて知ることのできるようにしてはやらない。もし口に言い表そうとして、言(い)い表すことができないでいるのを見なければ、十分に言い表す事のできるようにしてはやらない。物の道理は類推(るいすい)することのできるものである。ちょうど四隅(よすみ)ある物なら一隅(ひとすみ)を挙(あ)げて示せば他の三隅(みすみ)を知ることができるようなものである。もし一隅の道理を示しても自ら三隅の道理を考えて語ることができないような者なら、まだ教えを受ける素地がないので、告げても効(こう)がないから、再び告げることはしない。
著者の解説では、程子(ていし)の言葉を引用して「憤(ふん)と悱(ひ)とは誠意が顔色(かおいろ)や言辞(ことば)にあらわれたのである。その誠(まこと)の至るのを待って後にこれを告げるのである。既(すで)にこれに告げれば、必ずその自得(じとく)するのを待ってまた告げるのである。」と書かれていました。
学びや習熟に対して情熱や積極性を持つようにしたいと思いました。また、一を聞いて他を類推できるほど、考える人になりたいと思いました。


