哀公(あいこう)問(と)ふ、「弟子(ていし)孰(たれ)か学(がく)を好(この)むとなす。」孔子(こうし)対(こた)へて曰(い)はく、「顔回(がんかい)といふ者(もの)あり。学(がく)を好(この)む。怒(いか)りを遷(うつ)さず。過(あやま)ちを弐(ふた)たびせず。不幸(ふこう)短命(たんめい)にして死(し)す。今(いま)や則(すなは)ち亡(な)し。未(いま)だ学(がく)を好(この)む者(もの)を聞(き)かず。」
(訳)魯(ろ)の君の哀公(あいこう)が「弟子たちのうちで心から学問を好む人は誰(たれ)か」とお問いになった。孔子が対(こた)えて曰(い)われるには、「顔回(がんかい)という者がありまして、心から学問を好みました。よく克己(こつき)の修養を積んで、甲に対する怒りを乙に移すようなことなく、又前に過(あやま)ったことを後(のち)に再度繰(く)り返(かえ)すようなことはありません。誠に学問を好む者でありましたが、不幸にも短命で死にまして、今は弟子の中に学問を好む者はおりません。まだ天下に学問を好む者のあるのを聞きません。」
著者の解説では、中国北宋時代の儒学者である程子(ていし)の言葉を引用して「顔子(がんし)の怒りは物の上に在るので、己(おのれ)の上に在るのではないから、遷(うつ)さない。不善(ふぜん)があれば知らないことはないし、知れば再び行うことはないから、過ちを繰返(くりかえ)さないのである。」と書かれていました。
克己(こつき)の修養とは、自分自身の欲望や邪念、怠惰な心に打ち勝ち、人格を磨き高めていくための精神的な鍛錬のことです。やり場のない怒りを誰か別の人や物にぶつけることなく、過ちを再度繰り返さないこと、が大切なのだと分かりました。
価格:2233円 |


