子曰はく、富(ふ)と貴(き)とは是(これ)人(ひと)の欲(ほっ)する所(ところ)なり。其(そ)の道(みち)を以(もっ)てせずして之(これ)を得(う)れば処(を)らざるなり。貧(ひん)と賤(せん)とは是(これ)人(ひと)の悪(にく)む所(ところ)なり。其(そ)の道(みち)を以(もっ)てせずして之(これ)を得(う)れば去(さ)らざるなり。君子(くんし)仁(じん)を去(さ)らば悪(いづく)にか名(な)を成(な)さん。君子(くんし)は終食(しゅうしょく)の間(あひだ)も仁(じん)に違(たが)うことなし。造次(ぞうじ)にも必(かなら)ず是(ここ)に於(おい)てし、顚沛(てんぱい)にも必(かなら)ず是(ここ)に於(おい)てす。
(訳)富貴(ふうき)は人の欲するものであるが、富貴を得られるような善(よ)い事をしないでこれを得るならば、恥じて富貴の地位にいない。貧賤(ひんせん)は人の嫌(きら)うものであるが、貧賤を得るような悪い事をしないでこれを得るならば、貧賤の境遇に安(やす)んじて去らない。君子が君子といわれるのは本心の仁の徳を失わないからである。もし不義(ふぎ)の富貴を貪(むさぼ)り、自ら招かぬ貧賤を厭(いと)うようならば、すでに仁を失ってしまうから、どうして君子と名づけられよう。君子は御飯を食べるくらいの僅(わず)かの間でも仁に違(たが)うことはない。急がしく事のさしせまって心の落着かぬ時でも、艱難(かんなん)に遭(あ)って流浪(るろう)して身の安全でない時でも仁を忘れることはない。
著者の解説では、君に事(つか)えて忠を尽くすようなのは富貴(ふうき)を得る道である。不義(ふぎ)なことをして富貴を得るのは「その道をもってせずしてこれを得る」のである。奢侈怠惰(しゃしたいだ)のようなのは貧賤(ひんせん)を招く道である。不慮(ふりょ)の災難などに遭(あ)って貧賤になるのは「その道をもってせずしてこれを得る」のである。と書かれていました。
艱難(かんなん)とは、困難にあって苦しみなやむことです。立派な人格者は、食事の間でも、慌ただしい時でも、倒れそうな時でも、仁徳を忘れないものなのだと分かりました。