三家(さんか)は雍(よう)を以(もっ)て徹(てっ)す。子曰はく、「『相(たす)くるに維(こ)れ辟公(へきこう)あり。天子(てんし)穆穆(ぼくぼく)たり』と。奚(なん)ぞ三家(さんか)の堂(どう)に取(と)らん。」
(訳)魯(ろ)の三家(さんか)ー孟孫(もうそん)・叔孫(しゅくそん)・季孫(きそん)は当時魯の政権を奪っていたが、彼らは己の先祖の祭をして、供物をさげる時に、雍(よう)の詩を歌った。雍の詩は天子が先祖の廟(びょう)を祭って、供物をさげる時に歌うのである。孔子がこれを譏(そし)って曰われるには「雍の詩には、『相(たす)くるに維(こ)れ辟公(へきこう)あり、天子(てんし)穆穆(ぼくぼく)たり』という句がある。どうしてこの詩を天子も諸侯もいない三家の廟の堂上(どうじょう)へもって来て歌うことができよう。まるで意味をなさないではないか。」
著者の解説では、孔子が魯の三家の僭越(せんえつ)な行いを譏(そし)って名分(めいぶん)を正そうとした。と書かれていました。
名分とは「臣・子などという名の身分に応じて守るべき本分」のこと。三家の祭祀を行う堂に、諸侯が応援に来るはずもないし、彼らの天子気取りは身分を越えて出すぎた行為だと、名分を正そうとしたことが分かりました。