アキヒロ号のブログ
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本の紹介

雍也第六(1)

子曰はく「雍(よう)や南面(なんめん)せしむべし。」仲弓(ちゅうきゅう)、子桑伯子(しそうはくし)を問(と)ふ。子曰はく、「可(か)なり簡(かん)なり。」仲弓(ちゅうきゅう)曰はく、「敬(けい)に居(い)て簡(かん)を行(おこな)ひ、以(もっ)て其(そ)の民(たみ)に臨(のぞ)む。亦(また)(か)ならずや。簡(かん)に居(い)て簡(かん)を行(おこな)はば、乃(すなは)ち大簡(たいかん)なるなからんか。」子曰はく、「雍(よう)の言(げん)(しか)り。」

(訳)孔子が弟子の仲弓(ちゅうきゅう)を評して、「雍(よう)(仲弓の名)は人君(じんくん)の位(くらい)に置いて民を治めさせてよい人物である。」と曰われた。仲弓の性質が寛大(かんだい)でこまかしくなく、重(おも)みがあって軽々しくないから、孔子がこのように曰(い)われたのであろう。仲弓は子桑伯子(しそうはくし)のことを尋(たず)ねて、彼も己(おのれ)の性質と似た所があるが、又異なる所もあるから、孔子の答えによって、その得失(とくしつ)を知ろうと考えた。孔子が「まあ可(い)い、簡(おおまか)な人だ。」と曰(い)ったので、仲弓は、「人君(じんくん)の位(くらい)において民を治めさせてよい」という意味だと疑って、「心に敬(けい)ということを忘れないで、能(よ)く自ら治めておいて、簡(おおまか)な行いをして民に臨(のぞ)むならば、事が煩(わずら)わしくなくて民が安(やす)らかでよろしいではありませんか。心が簡で自ら治めることもせずに、簡な行いをしたならば、あまり簡に過ぎて、しまりがなくなりはしませんか。」と曰(い)う。孔子が曰(い)うには「雍(よう)のいう通りだ。」

著者の解説では、当時の民に臨む者があまり細かく苛(きび)しくて、民は休息することも出来ないのを見て、もし雍(よう)のような人物に民を治めさせたら、民が救われるであろうと思って、孔子が「雍(よう)や南面(なんめん)せしむべし」を曰(い)われたのであろうという説がある、と書かれていました。

南面(なんめん)とは、人君が政(まつりごと)を聴(き)く時には南に向いて座(すわ)ることから、政事を執(と)ること。自らは慎み深く気を引き締めて行動し、目下の人に対しては堂々とした態度で接するようにしたいと思いました。

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