林放(りんぽう)礼(れい)の本(もと)を問(と)ふ。子曰はく、大(だい)なる哉(かな)問(と)ひや。礼(れい)は其(そ)の奢(おご)らんよりは寧(むし)ろ検(けん)せよ。喪(そう)は其(そ)の易(をさ)めんよりは寧(むし)ろ戚(せき)せよ。
(訳)林放が礼の本(もと)を質問した。孔子が林放の世俗(せぞく)に随(したが)って末(すえ)を逐(お)わないのをほめて曰(い)われるには、「これはまことに大きな質問だ。礼は過ぎもせず足りなくもなく、質(きじ)と文(かざり)との中庸(ちゅうよう)を得るのが最も善いのであるが、すべての物はまず質(きじ)があってのちに文(かざり)があるものであるから、どちらかといえば質(きじ)のほうが礼の本になるのである。礼には色々あるがいずれもあまり文(かざり)が過ぎて贅沢(ぜいたく)なのよりは、どちらかといえば、質(きじ)が勝(まさ)って倹約のほうがよい。喪ー凶礼(きょうれい)は文(かざり)が過ぎて哀(かな)しみの足りないのよりは、どちらかといえば、質(きじ)が勝って哀しみの過ぎたほうがよい。
著者の解説では、吉礼(きちれい)につけても凶礼(きょうれい)につけても、なるべく盛大にして、人に見せて己(おのれ)の勢力なり財力なりを誇ろうとする人が往々あるが、礼の本を忘れる人は古(いにしえ)から多かったと見える。と書かれていました。
林放(りんぽう)は孔子の弟子で、魯の人です。質(きじ)は、実質や本質などの意味で、人の内面のことです。文(かざり)は、あやや文様などの意味で、人の外観のことです。繁雑になって作法の末にならないよう、本質を考えて行動したいと思いました。